| Sosya News かごしまの心@ |
艸舎ニュースコラム「かごしまの心」は(財)鹿児島県青年会館の黒木正彦理事に5回連載でお願いしました。艸舎活動の背骨となる考え方をお伝えします。
| かごしまの心@ | |
| 心とは「人間の言行の基になるのが心」だといわれる。また真(知的情操)善(道徳的情操)美(芸術的情操)を統一・融合したものと説明されてきた。最近これに加えて聖(宗教的情操)が大切だといわれるようになった。これは心痛む青少年の問題行動を直視してのことからである。人間を越える偉大なるものに対して、敬い、慎むことを忘れてはならないことの強調である。 ひと昔前の祖父母は早朝、東天に向かい柏手を打ち、神棚や仏壇に祈る敬虔な姿があった。それが物質中心の豊かになりすぎた現代社会では埋没し「日本人は祈りと感謝を失った」と警告されるようになった。現代に生きる青年にとってこの指摘は心して受けとめねばならぬことであろう。祈りとは、どの宗教も同じだといわれているが、まず両手を合わせる。そしてお詫び、お願い、感謝だと教えられている。 夜が明けて今日の一日が始まるとき先人たちは生活の中の自然ななりわいとして、祈っていたのである。強制されたものでなく、自らの意思による生活そのものであった。 貧富の差はあっただろうが、それにもかかわらず、まっとうな社会が形成されたのは、人としての祈り、感謝があったからだといってよい。ここに見られるのは生きていく人間の原点である。無骨で粗野という風評の中で実は人間的な滋味を内面に根付かせていた先人たちであった。 一般的に鹿児島の県民性を言うとき「薩摩の正気と狂気」と一言で語られることがある。とくに狂気では常軌を逸した行動ととらえられる傾向が強い。しかし先人たちの生きざまを思うと、狂った行動を体現したものではなかったことに気づくのである。それは、正義を貫く勇気に裏打ちされた勇猛果敢な行動であり「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」の決断であったと理解してよい。薩摩独特の剣法である示現流では、第一の心得として、刀は簡単に抜くものではないと教え、第二に「一の太刀を疑わず二の太刀は負け」と教えている。 いわゆる一撃必殺であるが、識者の言では、示現流は殺人剣でなく活人剣であると教えているのである。幕末、新撰組の隊長、近藤勇が隊士に「薩摩の侍と切り合うときには、最初の一撃は必ずはずせ。まともに受けたら大怪我をするぞ」と語っていたという。その構え、気迫はすさまじいものであったろうから「狂気」と映ったと考えられる。しかし先人たちは「かねては心優しい人柄で親しみやすかった」と口を揃えて語っている。 維新回天の大事業に献身した多くの先輩たちは、心優しき決断と勇気の持ち主であったことに異を唱える人はいないと考えられる。これらの先輩たちを育んだのは、鹿児島の風土である。改めて「風土は精神に影響する」ことを銘記したいのである。閉鎖性を言う向きもあるが、むしろ開明性を重視したい。 薩摩は「和魂洋才」であった。東洋一の大工場を出現された斉彬公の「西洋人も人である。薩摩人も人である。不屈不撓、この業を完成させずしてやむべきか」の言葉がある。「山坂達者」「質実剛健」「博愛慈悲」「敬天愛人」は、かごしまの心の源流であり今に至るまで継承され未来に生き続ける至言である。 |
| かごしまの心A | |
| 「風土千年、風景百年、景観十年」の言葉がある。風土は長い歴史の歩みの所産である。その歴史は先祖の物語でもある。ここから「風土は精神に影響する」という言葉を生み出したとみてよいようだ。薩摩の心=鹿児島の心は決して風土と無関係ではない。郷土の特色は「僻遠性」「シラス台地」「温暖な気候」の三つだと説明されている。中心地からかたよって遠いことは当然のことながら閉鎖的になりがちだが、歴史の変遷のなかで、頑迷固陋(がんめいころう)にならなかったのが郷土である。 列島南端の条件は、今の言葉でいえば、南の玄関口として文明開化の風潮となった。内を守り外へ目を向けたのである。また、シラス台地は、大隅、薩摩両半島、都城付近に広く分布する火山灰・軽石の層。現在の鹿児島湾を形成している太古の姶良火山、阿多火山などの噴出物が堆積した台地である。肥沃な土壌とはいえないが、先人たちはこのシラスとともに生きてきた。それは自然的悪条件と戦い、これを克服し、やがて自然の恵みを享受してきた。シラスの大地に生き抜いた先人たちだが、それはまさしく土と人間は二つでなく一体だという「身土不二(しんどふじ)」の不屈の精神を培ってきたといってよいものである。 さらに温暖な気候は、ひところ台風銀座といわれたように災害をもたらしたが、一面、人間生活と農業に必要な水を運んできた。水は浸透性の強いシラス土壌がつくる地下水の池からの湧水と森からの水もあって恵みの雨ともなった。列島北部の雪どけ水を待つのとは趣を異にしているのである。四季も豊かで南国特有の情緒がある。春は早くきて早く終わる。夏は早くきて長く続く。秋は遅くきて長期間続く。冬は遅くきて早く終わる。これが郷土の四季の特色である。 このような条件、環境はそこに住む人間の精神、心の構造に必然的に影響する。楽な生活史であったとはいえないが、からいもの伝来、普及で餓死者を出さなかったことも加わって、南国特有の楽天性を培い、マイナス要因とよくいわれる「てげてげ」の気風を生み出した。しかしその「てげてげ」は、風土、気候、地勢に順応した独特の生き方といってよいのではないかと考えられる。戦後の台風で記憶に残るルース台風のとき、収穫直前の水稲が、立っているのは一本もないほど強い風雨で田面に叩きつけられていた。その状況を見て、天を仰ぎ地を叩いて嘆き悲しむのでなく、目の前の現実をまっすぐ見ながら「稲は来年も作いがないもんでお」といって被害田を見回っていた老農の姿が今も鮮明に蘇ってくる。 ここに在るのは、苦を苦として受け止め、明日を目指す南国農民の楽天性である。「明日は明日の風が吹く」というような投げ遣りでなく、稲作りをずっと続けていこうとする息の長い根性である。一年一作の稲を毎年継続して耕作していく気構えだが、被害を淡々と受けとめ、なお意欲を失わず前へ進む土に立つ不退転の生きざまである。気楽でのんびり型の楽天性ではない。 郷土人の真の気質は、情を失わず、苦を受容して楽に転ずる息の長いねばり、根性であろう。改めて「風土は精神に影響する」を銘記したい。 |
| かごしまの心B | |
| 西国雄藩として生き続け、維新回天の大事業の中心的推進力となった薩摩の精神・かごしまの心の源流はどこに求められるのであろうか。それはやはり薩藩中興の祖・加世田城主であった日新公の「いろは歌」であろう。「いろは歌」は神・仏・儒・天道を融合、一体化した「老若の教訓」となっていた。社会の中で人間としていかに生きるかの道を教え諭(さと)した「いろは歌」だが、五百年近い歴史の流れのなかで脈々と受け継がれている。 「いにしえの道を聞いても唱えても わが行いに せずばかいなし」(昔からのすぐれた教えをいくら聞いても、またどれだけ口先で唱えても自分で実行しなければ何の役にもたたない)=学問の心得。「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは たかきいやしき」(二階造りの立派な家に住む人も、みすぼらしい小屋に住む人も、住む所によって人の値打ちは定められるものではない。その人の心にこそ、尊い、いやしい、の区別があるのだ)=一般生活の規範。これらの歌は、今なお人口に膾炙(かいしゃ)している。 日新公は「お話しの会」を開かれているが、これには若者たちが挙(こぞ)って参集し教えを体得し具現しようと努めた。後年、秀吉が朝鮮に出兵した時、大口城主、新納忠元は城下の風紀の乱れを憂い、日新公のお話し会を想起して「二才咄格式定目」を示し理解、実践を申し付けた。武士道、詮議、山坂達者などだが約言すれば、文武の兼修である。これが郷中教育の起こりだといわれている。 日新公のいろは歌を精神的支柱とした郷中教育だが、そのすぐれた点は―@学んだものを実践する教育 A地域社会が自発的に実践した教育 B異年齢集団の段階的教育 C鍛錬を主とした根性と勇気の教育―に集約できる。郷中教育は、義のために身を呈する《ぼっけもん集団》をつくったといわれるが、向学の士には最高の学問が受けられるように援助され多くの人材が育成され国家有為のリーダーが輩出した。これらの先達は郷中教育の中で育っている。根性、勇気、正義感、献身、不撓不屈など心身を練磨し英気を養っている。そこには知性と判断、決断が兼ね備わっていたわけだが、これも郷中教育の中で培われている。文武両道ということになるが、哲学―人生観・世界観を修得していたのである。 学修として四書(大学、論語、孟子、中庸)五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)を学んでいる。簡単な定義は、徳(清らかな心を持ち人から尊敬される)、仁(思いやりがあり正しい行いをする)、義(人として、しなければならないこと)、礼(けじめを守り、節度のある行いをする)、忠(世の中に感謝して誠実に尽くす)、孝(親に感謝して誠実に尽くす)と説明されている。これは紛れもない道徳の徳目である。体だけではなく精神・心も鍛えていた先達であった。まさに「学事的な修練」の直向(ひたむ)きな人間努力だった。薩摩の精神・かごしまの心は、先哲といえる先人の心を継承し、誇り高く体現しようとする姿勢の中にあるのである。 |
| かごしまの心C | |
| 「良心の成立こそ最高の社会対策である」―その良心は心に届く生活体験の積み重ねで培われるといわれている。先人たちは、一日の長を尊重した長幼の序の共同体生活の中で心身を鍛え「農(なりわいの)は天下の大きなる本なり」を信条にした生業と結(ゆ)いの地域生活を通して、人の道を自然体として会得してきた。気骨を培った郷中教育。麓の地名が今も残っている百二外城の外城(とじょう)制度。農民の相互扶助で支えられた門割制度のなかで切磋琢磨してきた。 道理としての敬天愛人の心―を柱にして、人としての規範を言行に具現してきた。日常生活では、理屈や抽象論でなく体を動かし行動する態度に徹した。今なお郷土に生きている教育伝承(格言・諺)の「議を言うな」にそれを見ることができる。「民主主義社会で意見を言うなとは、なんという封建的な所か」と言う向きもある。真意は、みんなで話し合って合意決定した後で文句を言ったり、不平不満を言ったとき、すかさず「議を言うな」と一喝された。衆議決定したことは直ちに実行だと厳しく教えていた。いわゆる即断即決の行動様式である。 「人間の言行の基になるのが心」であるといわれていることから見ると、不言実行、積極果敢の実践的精神構造を「かごしまの心」と捉えてよいのではないか。心は知・情・意に加えて聖を融合一体化したもので、―心に決める(意志)、心配り(気配り)、心に刻む(知的な理解)―と説明される。これに即して考えると、数多くの教育伝承のなかに、《戒と律》の教訓を見ることができる。代表的な諺で、三つの諺を別々にせず一体化し融合した諺としてとらえ、《生きる生活信条》として継承されている「負けるな うそを言うな 弱いものをいじめるな」―は、まさに伝承のかごしまの心である。 「負けるな」は、競争に負けるなだけでなく、自分の弱い心に負けるなが本意である。「うそを言うな」は、うそを言うことを徹底して戒め、正直に生きよと教えた。「弱いものをいじめるな」は、単に人間関係だけでなく自然・動植物まで慈しむことが大切だと諭した。哲理としての「敬天愛人」、伝統的な「博愛慈悲」、心身鍛練の「山坂達者」、気風の「質実剛健」の根底にある「かごしまの心」である。豊かになりすぎた成熟社会の中で一際、光彩を放つ教えだ。 現代の価値観の多様化は心の乱れであり、美意識、価値あるものに気づく人としての感性の欠落だと警告されている。こうした風潮の中で『対自分』の「わが鼻ん下は見えじ」(自己反省)「泣こかい飛ぼかい 泣こよかひっ飛べ」(決断と勇気)「仕事ちゃ小皿で飯はどんぶい」(権利と義務)『対他人』の「お茶と情けは濃い濃いと」(思いやり)『対自然』の「天辺(てっぺん)の柿の実は二つ三つ残せ」(共生の思想)「お盆前の道普請(みちぶしん)」(環境保全)『対社会』の「家(や)なれど外(すと)なれ」(奄美大島―家庭のしつけ)「人は人なか、木は木なか」(人間連帯)など数多くの教育伝承(格言・諺)が残っており今も生きている。 これら全てに人生の道標となる伝統の心が宿っている。郷土で学び、郷土を学び、郷土に貢献する土着の郷土愛の中に「かごしまの心」がある。 |
| かごしまの心D | |
| 薩摩の心・かごしまの心の根っこに在ったのは何か。それは醇厚(じゅんこう)にして純なる日本人の心だったといってよい。気高くけがれなき心情、美意識、自然観を自然体として会得した先人たちだった。「しきしまのやまと心を人問わば朝日に匂う山桜花」(本居宣長)。「かくすればかくなると知りながらやむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)に見られる潔白、純心な心情であり、理想のために身を捧げるという美しい生き方であった。これが心の根幹にあった 美意識では、芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」の、花を摘んで居室に飾ることよりも、目を凝らして美しさを愛でる。所有することでなく、そこに存在することを大切にとらえ、自己を自然と一体とする願望、生活の中の「野におけレンゲ草」の美意識があった 自然観では、「ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」(紀友則)−が心の底にあった。ニュートンの見た自然と同じものだが、ニュートンは、花の散るを風情ととらえず、リンゴの落下から万有引力の法則を発見し、光のどけき陽の光をプリズムに分解して、光と色の理論を出し科学の目でとらえた。日本人は詩心でとらえている。これが西洋人と日本人の自然観の典型といわれている ここに見られるのは先人たちが大切にし誇りにした心情であり意識である。現代人はこうした心を忘れ去っているのではないか。先人たちが感得(真実を感じ自分のものとする)したその心は、やがて時代の変遷と南国特有の風土のなかで、独特の気風を形成し、維新回天の大事業に、一際、光彩を放つのである 郷土の作家、海音寺潮五郎先生は「ぼくの故郷の歌に、“ふる里の薩摩の国は空青し ただ青々と澄み渡るなり”というのがある。まことに薩摩の国は空青く、光線強烈、あくまでも明るい国である。この自然の環境がはぐくんだのであろう。薩摩人は明るく、陽気で、楽天的である。艱難(かんなん)に際しては、励声(れいせい)一番、『チェスト行け!』と突進して一気に乗り越え、悲運に際しては、『一杯(いっぺ)やいもそ』と黒ヂョカに焼酎をわかして、諧謔(かいぎゃく―ユーモア、しゃれ)百出して新しい気分をふるいおこす。長い薩摩の藩政は、この愛すべき薩摩人気質にきびしい訓練―しつけをもって、さらに新しい気風をプラスした。剛強を男子第一の資格として卑怯未練をいやしみ、剽悍(ひょうかん)決死、決して弱音を吐かない気質である。これらの気質が一時に爆発し、日本史の驚異となったのが明治維新の薩摩の働きであった」と述べておられる。見事な郷土の心の原型表現である この心は城山下の西郷隆盛銅像に象徴的に表現された。軍服姿は明治初年の陸軍大演習で明治天皇の御寝所を風雨の中で一晩中、立哨した「誠」を表し、憂国の目は桜島を望んでいる。立像は剛気、大志を、台座は忍耐を意味し、築山の石は根占海岸から運んだ。西郷隆盛が若者に諭した「忍耐強く大志を抱き剛気な人間になれ」を具現した郷土出身の安藤照の心魂を傾注した傑作である 先人たちは自らを燃焼させ、誠の光を周囲に照らしてきた。その心を継承し新時代に炎を上げる時にきている。(黒木正彦) |